遠山金四郎景元の刺青はグレていた時期のものだった!

遠山金四郎景元「遠山の金さん」の刺青は、桜吹雪ではなく女性の生首であった。
遠山の金さんといえば、江戸時代の桜吹雪を片腕に入れているイメージがあります。
しかし、遠山金四郎景元の刺青の背景にはとてつもなく衝撃的な理由があった。

遠山金四郎景元の時代劇シリーズ

遠山金四郎景元は、江戸時代に江戸北町奉行や大目付、そして南町奉行を勤め上げた人物であります。
その遠山金四郎景元を主人公に時代劇として表現したものが「遠山の金さん」シリーズである。
以下が、、これまでテレビ朝日で放送された時代劇です。

  • 「遠山の金さん捕物帳」:1970年~1973年
  • 「ご存知遠山の金さん」:1973年~1974年
  • 「ご存じ金さん捕物帳」:1974年~1975年
  • 「遠山の金さん」   :1975年~1979年
  • 「遠山の金さん」   :1982年~1986年
  • 「名奉行遠山の金さん」:1982年~1986年
  • 「金さんVS女ねずみ」 :1988年~1998年
  • 「遠山の金さん」   :2007年~

遠山の金さんは実在の人物

遠山の金さんこと「遠山金四郎景元」は、1793年8月23日に登場虎ノ門に誕生しました。
遠山金四郎景元の幼名は通之進で、皆ご存じの「金四郎」という名前には17歳の時に改名しました。
そして、現在と違い江戸時代は姓と名と「諱(いみな)」がありました。

諱は、一生の生き様を死後に供える称号の意味のなる名前となります。
遠山の金さんの諱は、これまでの徳行によって「景元」と名付けれれ、正式名称が「遠山金四郎景元」となりました。
そのため、金さんの事を「遠山金四郎」や「遠山景元」と呼ぶ場合もあります。

遠山の金さんは、33歳の時に養父が亡くして家督を継ぎます。
家督を継いでからは、将軍の雑用係を勤め上げコツコツと実績を積みながら48歳の時に遠山の金さんは江戸の北町奉行を2年間務めます。
その後、南町奉行を7年間務め上げ、諱が「景元」と名付けれます。

遠山の金さんの刺青の秘密

遠山の金さんこと、遠山金四郎景元の刺青は「桜吹雪」ではありませんでした。
時代劇影響で、遠山の金さんは桜吹雪がとても印象的です。
しかし、遠山の金さんの刺青は「女性が口に巻物を咥えて髪を乱す首姿」でした。

そのなんとも斬新な刺青の根拠は、明治26年の雑誌に記載によるものです。
歌舞伎で遠山金四郎景元を表現する際には、この「女性が口に巻物を咥えて髪を乱す首姿」を再現していました。
その後、より江戸の人々が好む「桜吹雪」の方が、印象が良いことから徐々に首から桜吹雪の刺青に変りました。

江戸時代には入墨刑があった

今では想像もつかないことだが、江戸時代には体に入墨を彫り込む「入墨刑」があった。
入墨刑は、犯罪を犯した者の出身地域が誰でも分かるようにするためという目的がある。
現在でこのような入墨刑を行うと、大問題になりそうですね。

遠山の金さんの刺青は入墨刑ではない

江戸時代に入墨刑がありましたが、遠山の金さんの刺青は入れ墨刑によるものではりません。
遠山の金さんは、とても貧しい家に生まれた末っ子です。
長男と二男はすぐに出世し、家督を継いでいったが遠山の金さんは自分の家督を継ぐ事は絶望的でした。

そんな現実を受け入れられず、遠山の金さんはグレて遊びまわる毎日を過ごすようになりました。
遠山の金さんがグレていた時期に、「女性が口に巻物を咥えて髪を乱す首姿」の刺青を腕に入れていたのです。
この事実には、とても悲しい過去と心の叫びが込められていたのです。